リーン・スタートアップ

はじめに

スタートアップは失敗に終わることが多いよね。自分も何回も失敗した。けど、なんかうまいやりかた見つかったぽい。製造業から学ぶためにリーンというトヨタのうまいやりかたの概念を取り入れてみたら調子よくて、んで、いろんな人に教えた。本も出す。これがそう。まさに導入部。

ビジョン

舵取り

スピードアップ

マラソン大会か

学校全体でマラソンをしていた。トンネルをくぐる箇所があって、その出口のところで右側に曲がるというコースだったのだけど、その曲がり角のところにあれが立っていた。マラソンに参加してはいないようだった。というか、この学校の生徒ではないようだった。僕はトンネルの途中くらいであれに気がついた。ジャージを着ているので、なにかの計測などを係かもしれない。走りすぎる人らをじっと見つめていた。というか、電車が通り過ぎるのを顔を振って目線を追っかけさせるやつを走りすぎる人すべてに行っていた。当然僕にもすることになるのだけど、僕も気になったので凝視しながら走ったので、変に凝視し合うことになった。

仏教 第2版 渡辺照宏 1974年12月20日 第1刷 1978年12月20日 第7刷

前に読んだ同じ作者の同じ題名の本の2版。第2版だからと言ってちょっと間違いが修正されているだけかと思うと大間違い。内容がほとんど書き変わっている。仏教研究の進歩はすさまじいらしく、その変化に合わせて追記するよりは書き直した方が早かったっぽい。
専門学者の批判に耐えうる内容にしようとしているので、難しくなってつまらなくなっている。仏教の歴史を研究する人にはいいかもしんないけど、一般読者にはきつい。第1版のほうがとっつきやすかった。各国の仏教研究の歴史についてのくだりは死ぬほどどうでもよく感じる。それが第一章から始まっちゃうのでかなりきびしい。

1章 仏教へのアプローチ

日本人と仏教

日本人は死ねば仏教で葬儀がなされたりするし生活に密着しているといえるが、反面公式な場では無視される。アメリカにおいてはキリスト教の政党があるが、日本において仏教を全面に押し出した政党はなかったりする。

仏教的遺産

観光地について言うと、結構仏教関連なものが多かったりして、内外の観光客を引きつけるに十分な魅力を持つ。日本人の精神史に多大な影響を与えうる。

日本語の中の仏教

娑婆、四苦八苦、地獄などなどいろいろある。しかし、仏教で出てくる意味とは違う意味で使われているものがある。般若など。

仏陀と成仏

仏陀は日本において仏とも呼ばれるが、日本において仏とは死者を指すことばとしても用いられている。成仏とも言う。死者がすべて成仏=仏と成るとはおかしい。日本において霊魂が悪さをするという認識があったので、それを鎮魂する儀式を経たものを成仏として浄化する意味で使用方法が変化したと考えられる。

往生

日本においては死ぬこと=往生である。本来は転生を往生、または来生といった。

念仏

念仏は本来は仏を念ずる=仏陀を思念し精神統一することを表した。中国で念という感じがとなえるという意味も含んでいたため、そこで意味が転じて、それが日本にも伝わった。以上のように日本の仏教は、インドから西域を通って中国に伝わって変化した仏教を輸入し、さらにそれに日本独自の要素を追加したりして出来た物である。ということで、中国の仏教を押さえることが日本の仏教をしることにつながる。

中国仏教の成立

インドから直接中国に行くのは陸路/海路ともにつらかった。よって中国の西域を伝わって来た。そしていろいろあって中国の仏教が出来ていった。その解説。

中国における西域仏教

中国の仏教は西域からのものだよという念押し。

インドからきた僧侶たち

インドからきた僧侶の説明。ブッダバドラ、パラマールタという人らの紹介。

玄しょう

玄しょうという中国からインドに行って戻って来た人の紹介。玄しょうはいろいろ原典を持って帰って訳したけど、そこまで忠実な訳ではなかった。

プニョーダヤ

インドから来たプニョーダヤという人の紹介。けども、あんまり中国では重用されなかった。玄しょうが追い返したらしい。

アモーガヴァジュラ

インドから来たアモーガヴァジュラという人の紹介。密教の教典の翻訳。空海の師匠の師匠。

塔(すとぅーぱ)の違いが中国/日本の仏教とインドの仏教の違いを如実に表す。インドのストゥーパは丸くて低くて石っぽい。元は貴人の墓。サンサーラナーガで出て来たような。インドでもだんだん建物っぽい感じになり、中国でそれがより強まった。そして日本にも伝わって、五重塔とかになった。
これらの違いから3つのことが示唆されるといっている。1インドと東アジアの仏教は違う物に見えることがあること。2が、本質的な共通点が見つかること。3塔でわかるように新しい美が生まれた。
さて、これらをふまえて以下の点に注意して仏教を論じなくてはいけない。まず歴史の変遷による仏教の変化をみることが重要。日本の仏教をインドに直で結びつけるのは厳禁。仏教の本質的な要素と従属的な要素の区別をするべき。最後に、東アジアで負荷された要素の価値も評価すること。

ヨーロッパにおけるインド研究の開始

ヨーロッパにおけるインド研究の歴史を解説。勉強の参照元にはよいと思うけど、初学者が読んでもちょっと意味なさげ。

パーリ語仏典の研究

おなじく

チベット仏教の研究

おなじく

サンスクリット後仏典の発見

おなじく

北方仏教の研究

おなじく

西域の再発見

おなじく

仏教研究の新方向

日本での仏教研究の歴史。日本なのでちょと読めるけど、やはりそこまで初学者には意味がないかも。

日本における仏教研究

仏教の研究をするのならばインド学、中国学の広範な知識での裏付けが必要。

本書の歴史的立場

仏教の資料は膨大なので、どのようなの理論の裏付けでも仏教の教典をあされば出てくるくらいのものである。よって、仏教を思想の裏付けに利用したり、仏教をこころのよりどころにする前に、「仏教はどのように成立しどのように発展したか」を考え調査することが必要であると。いろいろ世界で近代的研究がなされ研究は進んでるが、あんまだめなやりかたもまだなされているのが現状。それらに言及すること無く、ただ結論のみを本書では述べてゆく。

2章 仏陀とはなにか

仏陀の宗教

仏教とは中国での道教儒教などと同じ形式にしたものであり、もともとの意味としては「仏陀の宗教=仏陀によって説かれた宗教」となる。となると、仏陀とはなにかということに話が及ぶ。ブッダはインドにおいて”めざめる”の過去分詞であり固有名詞ではない。もともと王子でゴータマシッダルダとかだったし。宗教的に完全な境地に達した人という意味であり、いつかは出現する存在としての認知はあったようだ。少し状況がキリストと似ているが、仏陀の場合はあくまで人間であるというところに意義がある。

仏陀が説いた宗教

仏陀は紀元前500年ごろのシャーキャ族=シャカ族の王子で、結婚して、子供作って、29で出家して、35歳に悟って仏陀になり、その後45年説法して890歳で入滅したという歴史的に実在した人間。シャーキャムニ=釈迦むにとも言われる。この人が説いたものが仏教と言って間違いはない。が、しかし、ブッダという語源からして、このシャカムニだけがブッダである必要はなく、多くの仏教教典にも過去に別の仏陀が存在していたと書いてあり、さらにシャカムニの教えは昔の仏陀らが見つけていた法を再発見したものであるとも書かれているようだ。さらに考えると、未来にもいていいことになりそれがマイトレーヤ弥勒様。さらに大乗仏教では私らの世界だけでなく、別の世界にも仏陀がいるという。
ということで、仏陀はいろいろいるので、仏陀をどう考えるかで、仏陀の説いた宗教という仏教も変わってくる。

仏陀を信仰する宗教

仏陀の教えを実践するのは難しいから、仏陀を信仰して救われちゃえという考え方が、おもに在家信者に生まれてきた。シャカムニは無限の慈愛を持つのでそれを容認したらしい。さて、ここでも仏陀をどう考えるかで、仏陀を信仰するということの意味がいろいろに変化する。
次の章で仏陀について考察する。

仏陀についての考察

5つの見方がある。
1シャカムニという普通の人間が悟って偉大な思想家/哲学科/宗教家になった。その考え方などを学びたい。
2ふつうの人間ではない。人間の理想像だ。キリスト、モハメッドなどと同じ。人間を越えてる感じ。
3過去/未来/別世界にも仏陀がいる。
仏陀という宇宙精神があり、それが時と場合に応じて顕現する。
5宇宙すべてが仏陀。汎神論ならぬ汎仏論。

とまあいろいろ仏陀があるけど、とにかく現在の世界においての仏教の始まりはシャカムニなんで、それが生まれた時代/土地の背景を知ることが仏教をより深く理解するのに必要である。次の章はそれ。

3章 仏陀以前のインド

**

**

とはなんだろうか 脳の来歴、知覚の錯誤 下条信輔 1999年2月20日第一刷 2011年4月8日第19刷発行

偉い知人が勧めてたのでなにも調べずにポチッたけど、実はちょい古いみたいで残念。まあ19刷まで出てるからある程度信頼できるはずだし、参考文献とかちゃんと書いてるし、この本をはじめとしてやっていきまっしょい。

はじめに-脳と心の全体像

脳の科学的理解は、結局私たちに何をもたらしたのか。この本は脳と心の問題を整理し直し、この問いになるべく分かりやすく答えようとする試みです。とのこと。
そして脳/認知科学の最前線を参照しつつ、その結果分かったことが人間観、倫理観、意識/無意識などとどのように関係していると考えられているかなど紹介する。
それを実現する戦略として2つ。
1つは筆者の得意とする錯誤(錯視などで有名なあれ)を使う。誤りを見すえることで、その逆の正しい(なにが正しいかはおいといて)ことを見つけ出す、さらに正しさとはなにか、錯誤って何が誤なの?ってとこも語る。
もう一つは「脳は、そして心は、孤立しているか」という問いかけの設定。錯誤を通して脳と世界の関係、種の過去へと思いを巡らす。なんだか、オカルトじみてきたが大丈夫か?はじめにでかなり熱い思いを語っていてちょとうれしい。書きたさが伝わるね。

微妙に作者の文章が読みづらい。すっごく入門書として書いているのだから、もっと平易に書ける気がしないでもないんですが。なんだか、心理学とかそういう人の本ってどうしても分かりづらくなってる気がして、それって昔の、偉い学者の翻訳本を読んで難しさになれて、そういう書き方が心のどこかに染み付いているんじゃないかと思ってみた。まあ自分が専門用語出るたびに嫌気がさしてるってのが一番大きいですが。

おわりに

こういう別にネタばれが無いような、勉強するための本については、「はじめに」「おわりに」「解説」を先に読んだ方が、話の道筋が分かりやすかったり、どういう本でどういう読み方をするのが合っているかが分かりやすくなるので先に読んでおくことにしてます。が、別の人が解説を書いている場合は、その人の理解に引きずられないように注意する必要があります。解説書いている人が理解しているとは限りません。いまこう書いている自分にも当てはまるので要注意。相対性理論はほとんどの学者が理解できなかった。
1990年から1997年の東大教養学部の講義「心理学」「認知行動科学」の講義録をもとに、新書に合った形式にまとめたものであるらしい。うーん。さらに古めに。あとは筆者のこの本が筆者にとってどういう本になったかの感想。自分の考えをまとめるのに役立ったんだってさ。

第1章 錯誤とはなにか

第2章 脳の「来歴」ーー錯誤から浮き彫りにされるもの

第3章 心と体と他者ーー連動する脳と世界

第4章 意識と無意識のありかーー心の全体像

第5章 人間観と倫理

パッキャラ魔道

家族の車が交通事故に巻き込まれたけど誰にもけがが無くて、でもそれを機に家族がそれを原因だったり原因じゃなかったりして、いろいろぐちゃぐちゃになっていったりいかなかったり。それを見てる小学5年生の主人公がまたイキルキスよろしく考えまくる。大人になるって大変だぜって話だけど、ほんと舞城さんは少年心を描くのがすごい。エヴァ的な主人公がかこいい。映像化したら死人がでるレベル。
事件がおこるぞおこるぞって盛り上げ方じゃなくて、スッとさりげなく起きてしまうところに、実際現実に事件が起きたり巻き込まれたりするときはこんなんですよね、みんなくらってますよね、ってことの表現のような気がする。

京王線沿線が出てくるので土地勘があるとなお楽しい。「みんな元気」といい舞城は調布に住んでたことがあると思われる。