仏教 第2版 渡辺照宏 1974年12月20日 第1刷 1978年12月20日 第7刷

前に読んだ同じ作者の同じ題名の本の2版。第2版だからと言ってちょっと間違いが修正されているだけかと思うと大間違い。内容がほとんど書き変わっている。仏教研究の進歩はすさまじいらしく、その変化に合わせて追記するよりは書き直した方が早かったっぽい。
専門学者の批判に耐えうる内容にしようとしているので、難しくなってつまらなくなっている。仏教の歴史を研究する人にはいいかもしんないけど、一般読者にはきつい。第1版のほうがとっつきやすかった。各国の仏教研究の歴史についてのくだりは死ぬほどどうでもよく感じる。それが第一章から始まっちゃうのでかなりきびしい。

1章 仏教へのアプローチ

日本人と仏教

日本人は死ねば仏教で葬儀がなされたりするし生活に密着しているといえるが、反面公式な場では無視される。アメリカにおいてはキリスト教の政党があるが、日本において仏教を全面に押し出した政党はなかったりする。

仏教的遺産

観光地について言うと、結構仏教関連なものが多かったりして、内外の観光客を引きつけるに十分な魅力を持つ。日本人の精神史に多大な影響を与えうる。

日本語の中の仏教

娑婆、四苦八苦、地獄などなどいろいろある。しかし、仏教で出てくる意味とは違う意味で使われているものがある。般若など。

仏陀と成仏

仏陀は日本において仏とも呼ばれるが、日本において仏とは死者を指すことばとしても用いられている。成仏とも言う。死者がすべて成仏=仏と成るとはおかしい。日本において霊魂が悪さをするという認識があったので、それを鎮魂する儀式を経たものを成仏として浄化する意味で使用方法が変化したと考えられる。

往生

日本においては死ぬこと=往生である。本来は転生を往生、または来生といった。

念仏

念仏は本来は仏を念ずる=仏陀を思念し精神統一することを表した。中国で念という感じがとなえるという意味も含んでいたため、そこで意味が転じて、それが日本にも伝わった。以上のように日本の仏教は、インドから西域を通って中国に伝わって変化した仏教を輸入し、さらにそれに日本独自の要素を追加したりして出来た物である。ということで、中国の仏教を押さえることが日本の仏教をしることにつながる。

中国仏教の成立

インドから直接中国に行くのは陸路/海路ともにつらかった。よって中国の西域を伝わって来た。そしていろいろあって中国の仏教が出来ていった。その解説。

中国における西域仏教

中国の仏教は西域からのものだよという念押し。

インドからきた僧侶たち

インドからきた僧侶の説明。ブッダバドラ、パラマールタという人らの紹介。

玄しょう

玄しょうという中国からインドに行って戻って来た人の紹介。玄しょうはいろいろ原典を持って帰って訳したけど、そこまで忠実な訳ではなかった。

プニョーダヤ

インドから来たプニョーダヤという人の紹介。けども、あんまり中国では重用されなかった。玄しょうが追い返したらしい。

アモーガヴァジュラ

インドから来たアモーガヴァジュラという人の紹介。密教の教典の翻訳。空海の師匠の師匠。

塔(すとぅーぱ)の違いが中国/日本の仏教とインドの仏教の違いを如実に表す。インドのストゥーパは丸くて低くて石っぽい。元は貴人の墓。サンサーラナーガで出て来たような。インドでもだんだん建物っぽい感じになり、中国でそれがより強まった。そして日本にも伝わって、五重塔とかになった。
これらの違いから3つのことが示唆されるといっている。1インドと東アジアの仏教は違う物に見えることがあること。2が、本質的な共通点が見つかること。3塔でわかるように新しい美が生まれた。
さて、これらをふまえて以下の点に注意して仏教を論じなくてはいけない。まず歴史の変遷による仏教の変化をみることが重要。日本の仏教をインドに直で結びつけるのは厳禁。仏教の本質的な要素と従属的な要素の区別をするべき。最後に、東アジアで負荷された要素の価値も評価すること。

ヨーロッパにおけるインド研究の開始

ヨーロッパにおけるインド研究の歴史を解説。勉強の参照元にはよいと思うけど、初学者が読んでもちょっと意味なさげ。

パーリ語仏典の研究

おなじく

チベット仏教の研究

おなじく

サンスクリット後仏典の発見

おなじく

北方仏教の研究

おなじく

西域の再発見

おなじく

仏教研究の新方向

日本での仏教研究の歴史。日本なのでちょと読めるけど、やはりそこまで初学者には意味がないかも。

日本における仏教研究

仏教の研究をするのならばインド学、中国学の広範な知識での裏付けが必要。

本書の歴史的立場

仏教の資料は膨大なので、どのようなの理論の裏付けでも仏教の教典をあされば出てくるくらいのものである。よって、仏教を思想の裏付けに利用したり、仏教をこころのよりどころにする前に、「仏教はどのように成立しどのように発展したか」を考え調査することが必要であると。いろいろ世界で近代的研究がなされ研究は進んでるが、あんまだめなやりかたもまだなされているのが現状。それらに言及すること無く、ただ結論のみを本書では述べてゆく。

2章 仏陀とはなにか

仏陀の宗教

仏教とは中国での道教儒教などと同じ形式にしたものであり、もともとの意味としては「仏陀の宗教=仏陀によって説かれた宗教」となる。となると、仏陀とはなにかということに話が及ぶ。ブッダはインドにおいて”めざめる”の過去分詞であり固有名詞ではない。もともと王子でゴータマシッダルダとかだったし。宗教的に完全な境地に達した人という意味であり、いつかは出現する存在としての認知はあったようだ。少し状況がキリストと似ているが、仏陀の場合はあくまで人間であるというところに意義がある。

仏陀が説いた宗教

仏陀は紀元前500年ごろのシャーキャ族=シャカ族の王子で、結婚して、子供作って、29で出家して、35歳に悟って仏陀になり、その後45年説法して890歳で入滅したという歴史的に実在した人間。シャーキャムニ=釈迦むにとも言われる。この人が説いたものが仏教と言って間違いはない。が、しかし、ブッダという語源からして、このシャカムニだけがブッダである必要はなく、多くの仏教教典にも過去に別の仏陀が存在していたと書いてあり、さらにシャカムニの教えは昔の仏陀らが見つけていた法を再発見したものであるとも書かれているようだ。さらに考えると、未来にもいていいことになりそれがマイトレーヤ弥勒様。さらに大乗仏教では私らの世界だけでなく、別の世界にも仏陀がいるという。
ということで、仏陀はいろいろいるので、仏陀をどう考えるかで、仏陀の説いた宗教という仏教も変わってくる。

仏陀を信仰する宗教

仏陀の教えを実践するのは難しいから、仏陀を信仰して救われちゃえという考え方が、おもに在家信者に生まれてきた。シャカムニは無限の慈愛を持つのでそれを容認したらしい。さて、ここでも仏陀をどう考えるかで、仏陀を信仰するということの意味がいろいろに変化する。
次の章で仏陀について考察する。

仏陀についての考察

5つの見方がある。
1シャカムニという普通の人間が悟って偉大な思想家/哲学科/宗教家になった。その考え方などを学びたい。
2ふつうの人間ではない。人間の理想像だ。キリスト、モハメッドなどと同じ。人間を越えてる感じ。
3過去/未来/別世界にも仏陀がいる。
仏陀という宇宙精神があり、それが時と場合に応じて顕現する。
5宇宙すべてが仏陀。汎神論ならぬ汎仏論。

とまあいろいろ仏陀があるけど、とにかく現在の世界においての仏教の始まりはシャカムニなんで、それが生まれた時代/土地の背景を知ることが仏教をより深く理解するのに必要である。次の章はそれ。

3章 仏陀以前のインド

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