結局のところ、親しさとは共通項の問題なのかなと思った。こんなことがいまさっきあったからだ。鈴木みそという漫画家がいて、その人はちんげ教なるホームページをやっているのだが、そこでとてもおもしろい話があった。正確にはまんげのほうにだが。(まんげとか書いちった)面白い話をしいれたら人に話したくなるのが小物っぷりを発揮しているのだが、それはまあ置いといて、とにかく相手を探してみると地元のこのごろあんま遊んでいないやつしかたぶん話がつうじないっちゅーわけです。ひらめいた!ひらめといたの古典的なギャグがぽわぽわと思い浮かびつつそう僕は叫びました。
と、ここまででやっと冒頭の一文に戻れたわけです。鈴木みそはマイナーな作家(失礼)なので知っているのは同じ時代に、同じ場所で過ごして、同じことばっか喋っていた小中の友達くらいなのです。もしかしたら、大学の友達も知っているかもしれないですが、大学のやつが「鈴木みそって知ってる?」って聞いてきたら怖い。(まあ、それくらいマイナーだと思ってもらうとわかりやすいです。もち俺はすきですよ。みそさん)でなぜに高校からと小中をわけるのか?それはやはり土地。地域の問題なのです。高校から上はもうみんながみんな同じ団地に住んでいたり、同じ店で買い物をしたり、同じ天気でなかったり、同じ物価でなかったり(関係ない?)するわけです。これでは明らかに話題が減ってしまいます。大学になるとさらにひどい。(ひどいっていうかまあそれとは話が違うのだけども)とりあえず、クラスという単位があったとしても、べつにクラス単位で動くといったことは皆無に等しく、もうみんなでいっしょのことをするっていう、あの青春のいいかんじはもう失われてしまうのです。それをもとめて、サークルやら部活やらがあってそこでは好きなことをいっしょにやる仲間がいて、安心して、それであわよくば付き合う相手もつくっちゃえみたいなそんな風なのです。考えれば、同じことをいっしょにするっていうのが一番の仲良くなる方法だと思うのです。だから、つきあったらデートに行って、同じ飯をくったりするのです。まさか、恋人同士がばらばらに別の場所で好き勝手なことをやっていたら、もはや付き合っているとはいえないでしょうから。(まあ、これは「いっしょにいたいから」という一言ですぐに論破されてしまうのだけど…)
うーん?ということは完璧に親しい人同士はベン図での円が完璧に重なり合う、そのひとと同じになってしまうのだろうか?ほんとかよ?


この文章はなおさなきゃなー