イン・ザ・ミソスープ

よく考えることがある。
味噌汁。日本のうまい汁製品だ。毎日の朝ごはんにはこれがなくては!と言う家庭が多く、僕の家もご多分に漏れず毎日出る。「パンの時はどうなんだよー」出ます。舐めてもらっちゃあいけない。うちは学食よろしくカレーの時にだって味噌汁が出るのだ。あとなぜかカレーの時にはイカそーめんが出ることが多い。これは謎である。
うちのカレー話に興味がある人は少ないし、と、こんな風に観客に気を使う振りをしてみてもたいして見てる人がいるわけじゃないから意味はとくにないんだけど、書きたいことを見失うことはだるいので、話を元に戻すと、味噌汁ってたいてい最後は捨てちゃう。たぶんどこの家もそうだろうと思う。全部毎日飲みきりはしないだろう。
そこで捨てられてしまう具の気持ちを考える。同じ豆腐から切り出された、まったくおんなじ豆腐なのに、なんの偶然かで生ごみ行きになってしまう豆腐。同じ港で陸揚げされ、乾燥され、袋詰めされ、水で戻され、味噌で煮込まれしてきた仲なのに、なんであいつはわかめとしてのちゃんと食べられて、俺はこんなくっさい生ごみに。ここには機会の不平等がありありとあるんじゃないか。タイミングとかの不確定要素でまったく同じ能力を持っていたのに、選ばれるものと選ばれないものが出てきてしまう。これはやりきれない話だと思う。
味噌汁の具にも機会の不平等がある。そんなんだし、人間の世界にも機会の不平等があるのは避けられないし、あたりまえだ。けどそう割り切るとなにもしたくなくなるので、こういう考えもあるなぁーと思いつつ、少しでも食べられるように努力していこうかなー、とかね。
食べられていこう。