猫背

このごろ猫背を直せといろいろな人に言われている気がする。それもある一つのグループの人から言われたのではなく、関わりのあるグループ色々な人からちょびちょびと言われるのだ。どうしたことだ。マイブームか、とうとうきたか、俺ブームか。
そんな感じで嫌に意識させられてしまっている猫背を自分はどうしたいのかというと、どうしたいのだろう。直したいというのはあるんだけど、いまさら直る気がしないってのがある。単純に曲がっているわけじゃなくて、もう20数年もこれで生きてれば骨自体のデフォルトが曲がった状態でいることが正解と思ってしまっていて、たとえ一瞬直線を意識しても、ちょっと出っ張ってファイナルアンサー。これは本当に直らないのではないか。骨を変えていくなんてそれこそ骨だ。(骨だ、って言葉はどこから来てるんだ?)直したほうが内臓の調子とか(別に悪いわけじゃないけど)良くなりそうだし、そのときの最強状態の胃腸を想像すると少し楽しいけど、20数年なんちゃらでだからもうデフォで内臓も考えちゃってるから、直してもまたびっくりするだけなんじゃなかろーか、とか思ったりするわけで。でも背が伸びること確実だし、それはちょっとお得。
見た目の問題じゃあないのだ。ポリシー、そうこれは自分の政策との戦いなのだ。自分がどうあるべきか、いつのまにか猫背でいることを是とする政策を打ち出した、昔の俺政権との戦いなのだ。今そう決まった。昔、この政権を打ち出した時の自分を考えると猫背はなんか、ちょっと、はずかしいけど、ダークなイメージをまとっていて、暗い、はすにかまえた、ひねた、そんな世の中をナナメに見ちゃってるような感じを感じ取って、そうあるべきだと思っていたっぽい。あとは、特徴づけ。他の人と同じでありたくない、みんなとどこか違っていたいとかいう痛いこと考えちゃってたっぽい。そんな自分の政策と真っ向勝負するときがきたわけです。筒井康隆、あ、ちげー。糸井重里も昔すごい猫背で、それを自分でも悪くないなと思っていたらしいんだけど、ある時に意味なんてないよなって気がついたらしい。このこだわりは別に捨てたっていいんじゃないかって気がついたわけだ。意地になっていただけだったらしい。そこに潔さを感じるっちゃー感じるけど、どうにも反対したい。その意味のないこだわりを意味なく持ち続けるのが男じゃないのか。捨ててこそ見えるものもあるけど大事に抱え込んで見えていることだってあるわけだ。そりゃどっちだって別の視点なわけだし見える物も違うだろう。あたりまえの話で「世界がパァーっと開けた感じ」とかなんとか良い様に言い飾っちゃって・・・だまされないせ?(こんなこと言ってたような気がしているけど、いってなかったらごめん。埋蔵金がんば)かぶいてこその漢だろ?信じるものもなく、持っているものもなく、どうやって生きてけばいいんだ?
まとまりません。