コーヒーに乳首

牛乳って牛の乳なんだなとふと思った。銭湯などでみんな風呂上りに飲むことがかっこいいと思われているけど、なんだか牛の乳と思うと、そのだれもが牛の六個ある、5cmくらいある、妙な弾力のあるあの乳首に直接吸い付いてる気がしてきてとても変な感じがする。どうもモノを短絡的に考える嫌いがあり、それからというもの、乳製品がなにもかも牛の六個ある乳首と結びついてしまっている。コーヒーに牛乳を入れるときやら、コンビニで「牛乳好きのためのメグミルク」をみたときとか、ヨーグルト・・・?ヨーグルトは違う。
乳製品というか牛乳そのものでなければいけないようだ。そのものでなければ乳首とは結びつかないのだ、僕の中で。白いさらさらした、けれどどこかねとねとしたほのかに甘い液体の場合だけ、乳首から(六個ある)そのまま直接しぼりだされている映像が目に浮かぶ。ヂューヂューと一定の間隔を置いて搾り出されるミルク。今は全部それ用の機械をくっつけて絞っているのだけど、浮かぶのはもちろん手でしぼられているものだ。それでこそ牛乳、乳首に結びつくべき牛乳なのだ。
けっこうやっかいなのである。ただコーヒーに牛乳をいれるだけなのに、意味はあるけど意味のない牛の乳首が連想されてきてしまうのは、なってみないとわからないうっとおしさがある。なぜ?やはり不潔感があるのである。すぐに結論を出すのは良くはないのだけれど、すぐに思いつくということはやはり第一にもってこられるべき理由があったから一番だったわけで、足が速いから一等、頭が良いから100点、といったもののように、確固たるものがあると思う。で、不潔感。これだけ乳首乳首といっているからには好意的印象を持っていると思いきやそうではないのである。絞りたては新鮮だよと言う人もいるが、乳首からそのままコップへ搾り出し、生暖かいまま飲むというのにはかなりの抵抗がある。冷えていてこその牛乳だ。
温度の問題なのかもしれない。冷てなければ牛乳ではないと思うところもある。けれど、僕は実際冬などには温かい牛乳を好む。好んで飲む。温かい牛乳にいろいろなものを入れて楽しんでいるのだ。定番のココア、コーヒーからメープルシロップだけとかシナモンを入れたりやらいろいろだ。なぜだか幸せの一種の象徴として暖かいミルクというものがあるのはだれにも否めないものだろう。そのなかにごたぶんにもれずに僕も入ってしまっていると言うわけだ。あたたかいスープにも似たしあわせ感はあるのだが、それは置いておこう。
しかし、なにもいれずに飲むのならやはり冷たくひやしたものが一番だろう。昔は火をおこして暖める、ということに対して冷たいものというカテゴリはなかったかそうとうの権力者しか味わえなかったわけでそれだけ冷たいものというものは価値があるはずである。詭弁を弄してもただ反論される機会を与えるだけだろうが、それだけ言葉を尽くして語りたいと言うほどにとにかくうまいのだ。夏、サッカーの合宿でつかれきったところに近くの牧場からの新鮮でさらに冷たくキンキンに冷やされた牛乳を飲んだときのことはいまでも鮮明に覚えている。わすれようがない。あれだけ毎日給食などでたいして喜びもなく飲んでいるのに、そのときだけは僕も友達も喜んで飲んだ。残った牛乳をかけてみんなで全力でじゃんけんをしたりもした。今、他の飲み物でもこのような強烈な記憶がないかと探してみたが、どこをさがしても見つからない。もしかしたら薄汚れた召使が実は王女だったとかのよくある一足飛びの転身物語の効果に似ているからかもしれないが、そんなちんけな理屈は気にも留めず通り越して僕にはとても強烈な印象をのこした飲み物が牛乳だったのだ。
しかしここまで牛乳への思いを綴ってみても打っているときに一度は「みるく」というひらがなでのつづりを見なくてはならず、それが「苺みるく」を想像させることがとても残念でならない。字面は強い力をもっているものである。大人の世界を憎む。